「危なーい、避けてッ!!!!!」

悲痛な叫び声に、そちらへ振り向くと、階段から落ちてくる誰かの姿。
避ける前に、受け止めようと、咄嗟に手が出ていた。

「ッ!?」

勢いがあった為、ふらりとよろめき、尻餅をつく。
同時に、カツンと乾いた音が聞こえた。
何事か確認する前に、受け止めた相手、女に声を掛けようとした。
瞬間。

「ごめんなさいごめんなさいスイマセン、大丈夫ですかッ!!!」

バッと顔を上げ、凄い勢いで巻くし立てられ面食らう。
至近距離で、ジッと見つめられ、その眉は心配そうに下げられていた。

「…平気や」

「そうですか…、良かった」

俺が答えると、安心したらしく、何事もなく離れて行った。
四天宝寺で関西弁以外の言葉を聞くのは珍しい。
そういえば、随分前に転校生が来たのを思い出した。
興味がなかったから、名前も顔も知らなかったが。
恐らく、目の前にいる相手がそうなのだろう。
立ち上がりながら、ぼんやり考え込んでいると、再び悲鳴染みた声が廊下に響く。

「ああッ?!」

「ど、どないしたんや?!」

何処か怪我でもしたのかと慌て、相手に向き直る。
見れば両手両膝を廊下につけ、俯き加減に小刻みに震えていた。
恐る恐る近寄ると、気配を感じたのか顔が上げられた。
その表情は、先程と同様に眉が下がり、加えて目は涙を堪える様に潤んでいた。
泣かれる?!
そう思い、どうすべきか慌てる俺を余所に、口が開かれる。

「め、眼鏡が…、壊れた……ッ」

まるでこの世の終わりみたいな、悲痛な呟き。
しかし同時に、予想外の一言。

「…は?」

言われて手元を見遣れば、フレームが歪に曲がり、レンズが落ち、無残な姿の眼鏡があった。
カツンという音は、コレだったのかと納得する。
まあ、それが解った所で無残な、言わば成れの果てであるソレを目にしてしまい。
どう言葉を掛ければ良いのか、非常に悩む。
高が眼鏡一つで、何をそこまでとも思うが。
さすがに、これ程までに落ち込んでいる相手を前にそんなコトを言う程、非情でもない。

「…とりあえず、お前は怪我せんかったか?」

当たり障りのないコトを言い、とりあえず立ち上がらせる為、手を差し出す。

「…多分、大丈夫です」

元眼鏡を握り締め、答えはするものの、相変わらず俯いたままだ。

「あー…、眼鏡は、災難やったな…」

「…」

「えーっと…、送って行くか?」

「…え?」

どうしたモノかと思い、そう言うと顔が上げられた。
そして、視線が合う。
暫く見た表情は、涙が溢れているコトもなく。
俺の言葉に、驚いた様な表情をしていた。
それから、初対面の相手に、何を言ってるんだ。と改めて考えれば思った。
けれど今更、発した言葉を無かったコトには出来ない。

「いや、その…」

何か言え、何かあるやろ。こう、上手く誤魔化せる様な何かが。
必死に考えを巡らせ、あの慌てっぷりからして、相当目が悪いのだろうと思い至る。

「眼鏡壊れて、ちゃんと見えとるんか心配やし…」

我ながら、上手い誤魔化し方だ。

「ああ、遠くの物や人はぼやけて、ハッキリとは見えないですけど。
輪郭とかは、全く見えないわけじゃなので大丈夫です。
本当に巻き込んでしまって、スミマセンでした。
助けて頂いた上に、お気遣いまでして頂いて。有り難う御座います」

「いや、気にせんでええけど…」

そうして一礼し、ふらふらした足取りで歩き出した。

「…明日から、どうやって生活して行けば……」

擦れ違い様、ぽつりと聞こえた独り言。
目が悪いわけではない自分は、どのくらい不便なのかは解らないが。
遠ざかる背中は暗く、哀愁が漂っているみたいで。
俺にはただ、見送るコトしか出来なかった。










そんなコトがあった、次の日。

「…あの」

教室で小春と話していると、ふいに声を掛けられた。
一体、誰や。と、そちらを向くと。
何処かで見た顔。しかも、物凄く最近。

「わたくし、と申します。昨日は、本当にスミマセンでした」

「ああ、昨日の…」

昨日の今日なのだから、覚えていて当たり前だ。

「なになに、なーに? 何があったん??」

一人で納得していると、興味を持ったらしい小春が、俺とそいつの顔を交互に見ながら聞いてくる。
どう説明したものかなと思っていると、相手の方が口を開いた。

「昨日、足を滑らせて階段から落ちた所を、一氏くんに助けてもらって…」

「そんなコトがあったん?」

そうして、俺たちの顔を交互に見ながら問うてくる小春に、頷き返す。

「眼鏡のコトで頭がいっぱいで、碌に謝罪もお礼も出来なかったので。
改めてお伝えしようと、こうして参上した次第です」

「別にそんなん、気にせんでええのに」

わざわざくるなんて、律儀なヤツだ。
まあ確かに、校則がゆっるゆるなこの学校にも関わらず。
髪を結んで、制服もきっちり着こなしている生真面目な外見をしている。
恐らく、中身もそういう性質をしているのだろう。
昨日の出来事の所為で、眼鏡は掛けていないが。

「…そういえば、眼鏡はどうなったん?」

「さすがに再起不能で、供養を…」

「…供養て」

思い出したのか、口元に手を当てウッと顔を歪めた。

「物は壊れるし、人はいつか死ぬもの。それが自然の理ですから…」

「んな、大袈裟な」

ボケなのか? 本気で言ってるのか?
昨日も思ったが、思考回路がイマイチ解り難い。

「ほな自分、見えて無いんか?」

「否、それは大丈夫です。母に
『あんた鈍くさいんだから、次が無いとも言い切れないし。今度はレンズの破片でも目に入ったら大変』
というわけで、コンタクトになりました。ので、今日はちゃんと見えてますよ!!」

ああ、それはオカン賢明な判断かもしれん。と若干失礼なコトを思ったが、口に出す前に踏み止まった。
それよりも、とりあえず気になるコトがある。

「なあ、何で自分、敬語なん?」

同級生にも関わらず、敬語。

「ええと…、何処の誰とも解らない会話もしたコトない相手に、タメ口とか失礼かと…」

「そんなん気にせんし。堅苦しいわ、普通に喋りや」

「…はあ、まあそれで良いなら」

変わった理屈だ。が、関東圏の人間は、こういうモノなのだろうか?
否、人間性か。

「それで、一氏くん。本当に怪我とかなかった? 大丈夫??」

「心配性やな、あのくらい平気や」

「ホントの本当に?」

「疑り深いな、本当や」

「それなら、良かった」

「…ちゅーか、そない聞いてくるんは自分、は怪我したんか?」

「え?! …いや、別に、そんなコトは…」

急に慌てだし、不自然なくらいに目が泳ぐ。

「嘘が下手やな…、正直に言えや」

そう言うと、僅かに逡巡した後。

「あー…、右足を」

言われて右足へと視線を落とせば、足首辺りに包帯が巻かれている。

「…挫いたんか?」

「……いや、その…」

言い難そうに、再び視線が泳ぐ。
暫くあーとか、うーんと口ごもり。ようやく覚悟を決めたのか、大きく一つ息を吐き。

「…靭帯が、伸びてたらしく…」

「はあ?!」

「ちょっと、大丈夫なん?!」

想像していたよりも、ずっと大怪我なだけに驚く。

「全然、痛みとかないし。言われて、私も吃驚したぐらいで。
あの程度で、こんな怪我するとか。案外、人体って脆いなっていうか。
単に私の運が、よっぽど無いだけなのか。多分、後者の可能性が高いけど。
だから一氏くんは、怪我しなかったか心配で」

まじまじと詰め寄る様に、小春と二人での方へ身を乗り出せば。
身振り手振りを交え、矢継ぎ早にそう返される。
確かに、あんな怪我してたら心配になるのも当然かもしれない。
というか、どの時点で伸ばしたのだろうか。
落ちてきた所を受け止めたわけだし。(尻もちをついて座り込んだが)
だとすると、滑らした時点で怪我を負っていた。というコトか。
それは、何というか。ある意味、器用と言えるのではないだろうか。

「私のは自業自得だし、でも一氏くんは私に巻き込まれたわけで。
しかも、テニス部のレギュラーなんでしょう?
だからもし怪我とかしてたら、何とお詫びをしていいやら、どの面下げて会えばいいかとか。
罵詈雑言浴びせられても仕方ないコトだし。
土下座しても、許されるコトじゃないけど。そんな覚悟を決めて来たんですよ!!」

「…どんなヤツやねん、俺は。そこまで心、狭ないわ」

拳を握り力説され、俺はにどの様に見られているのか疑問に思う。
確かにちょっと、目付きが悪いとか言われたりもするが。
昨日今日会っただけで、そこまで解れという方が無理な話しだろうけど。
でもまあ、中には難癖つけてくるヤツもいるのだろう。
の言う通り、テニスするのに支障を来すのは良いものではないけれど。
だからと言って、転落場面に遭遇し、無視するなんて非情なコトが出来るわけがない。
男ならまだしも、相手は女なのだ。
大事になったら大変だ。
というかは怪我を負っているので、助けきれてないわけだし。
まあ兎に角、それで自分が怪我をしたとしても自分自身の落ち度だし。
それこそ度量、人間性の問題だ。

「お詫びと、お礼を兼ねてコレ。たいしたモノじゃないけど…」

そう言うと、袋を差し出される。

「そんなん、いらんし。大体、眼鏡壊れて怪我までしたんやろ?」

「でも、一氏くんが居なかったら、歯折るとか鼻骨折とかしてたかもしれないし!!」

力いっぱい言い切られて、さすがにそこまでは無いだろうと思いつつも。
否、でもこいつなら確かに、それも有り得るかもしれないという風にも思える。

「ホントに、たいしたモノじゃないし。あ、でも一氏くんの好きなモノらしいから!!!」

「俺の?」

「うん、友達、よっちゃんって言うんだけど。
彼女ね、忍足くんと幼馴染で、その忍足くんからの情報だから大丈夫な筈。多分」

謙也の情報…、当てになるんか?
情報元に若干の不安も残るが、こうしていても、押し問答が続くだけだろう。

「ほな、貰っとくわ。おおきに」

「どうぞどうぞ。面白みも、笑いもない、至って普通の物で申し訳ないけど」

その後も、ぺこぺこと何度も頭を下げ、は教室へ戻って行った。




















「なあなあ、何が入ってん?」

「ん?」

が居なくなり、手元に残されたお礼の品。
謙也情報が、何処まで正確か解らないが。
とりあえず、小春に尋ねられ袋を開けてみる。

「おくら…?」

中に入っていたのは、おくらの束。
否、うん。謙也情報は、間違ってない。
確かに俺は、おくらが好きだけれども。
好きだけれども、こういう時に渡す物なのか?

「さっきも思ったけど、何やさんてオモロイ子ぉやなー」

ぽつりと小春が、そう呟く。
昨日からの言動に行動。
それに加えて、何処かぶっ飛んだ思考回路の持ち主。
興味を覚えない方が、おかしいという話しだ。






2010.04.24