何もかも、どうでもよく思える程―――




『両親に望んでいるコトなんて何も無い。』

どのような経緯(いきさつ)かは、覚えていないけれど。

いつだったか、ぽつりと三村が洩らした言葉。

独り言染みた小さな呟きに、そんな風に思える、考えるコト自体が。

心の内では、未だに何かを望み、捨て切れずにいるコトに他ならないのに。と…。

口から零れそうになった言葉を、飲み込んだ。






















『天秤にかける』




















三村が両親のコトを、そんな風に思うまでには。それ相応の理由が、存在しているのだと思う。

俺が三村の家へ、頻繁に訪ねるようになった現在(いま)でも。

両親の姿を目にしたコトは、未だに無かった。

父親は平日、会社勤めをしているのだから、早々会う機会はないだろうけれど。

そうでない母親にさえ、顔を合わせる機会がないのだから。

二人共が揃って、家にいる時間等が、とても僅かなモノなのであろうと、容易く推測出来た。

勿論、三村自身も妹である郁美ちゃんも。両親の手が掛かるほど小さな子供ではないけれど。

もう少し、子供と向き合う時間があっても良いのではないかと思う。

思うけれども、第三者で他人の俺が、他所様の家庭事情をとやかく言う権利も無いコトだし。

この先、態々口にするつもりもないけれど。





「望んでるコトは、何も無い。」という言葉を耳にし、未だ会ったコトもない三村の両親の姿を思った時。

ふと、自分の両親のコトが頭を過った。

五歳の時に別れた両親とは、彼是十年ほど歳月が経つ。

正直、両親。特に父親の方は、殆ど記憶にも残っていない。

母親に対しては…、色々と想う所はあるけれど。

でも両親に対し、思うコトは特に何も無いというのが、二人に対する素直な俺の気持ちだった。

好きでも、嫌いでもない。

だからと言って、憎んでいるわけでも、恨んでもいない。

両親や兄弟、家族と言えど所詮自分と違う生き物で。血の繋がりが有りはしても、他人なのだから。

自分と他人を秤にかけた時、自分が勝のは当然なコトだろうし。

それが、いけないコトだとは言わないし、思わない。

だから世の中の皆が皆、倖せになる方法など有りはしないのだ。

もし有るとするならば、それは空想の世界だけで。現実では有り得ない。

そんなコトは無いと、反論する人も存在(いる)だろうし。それはそれで、構わないと思う。

暖かい囲いの中で生きてきた人達と、思想が交差するコトは無いだろうし。

俺には、綺麗事で詭弁。甘ったるい戯言にしか聞こえないだけだから。

何より現実は、自分にそんな都合良く出来てるわけが無いコトを、俺は知っている。

だから、自分の倖せの為に俺が、両親から切り捨てられたのならば、仕方が無いコトなのだと。

その中に、俺が入っていなかっただけなのだから。

唯、本当にそう思うだけだから。

もう二度と二人に会うコトも無いだろうし。会いたいとも思わないし、思ったコトも無いけれど。

現在(いま)あの人達が、倖せに暮しているのなら。

それで良いんじゃないかと、俺は思う。





世の中には。

「得るモノ」と「失うモノ」とがあって。

例えば。

俺が今こうして、存在出来ているのは、両親二人のお蔭だけど。

でも同時に、二人がいなければ、俺があんな目を、思いをしなくて済んだのも事実で。

この二つを天秤にかけて、どちらの割合のが大きいのか、明確に答えを導き出すのは難しい。

けれど、それでもきっと。

得るモノが多いと思える方が良いに決まってるだろうし。

時には得たいモノを、同時に天秤にかけなくてはいけない選択に迫られる時もあるだろう。

でも、両方を手に入れるコトは出来なくて。切り捨てるコトも、必要で。

だから、そうして手にしたモノであるなら。

それを大切にするコトにこそ、意味があるのではないかと。

何もかもを、切り捨てるコトは簡単で、とても楽なコトだけど。

コレは最終手段だろうから。早々にしてはいけない行為だと思う。

思うけれど、俺は常にそうして生きているから。そうやって生きてきたから。

この思考は矛盾しているし、説得力も皆無だろうコトも解っている。

だけど、だからこそ言えるコトなのかもしれない。

両親を嫌っても、反発しても。別にそれは、構わないと思う。

唯、どんなコトがあろうとも、憎んだらいけないんだ。

特に、哀しみを憎しみに変えたら、いけない。

憎しみは憎しみしか生まないし、その負の感情は連鎖する。

それに結局、俺達は子供で。

所詮どんなに頑張ろうと、もがこうとも。自分一人の力だけじゃ生きて行けない、無力な存在だ。

こうして普通に生活していけるのは、その人達や周りにいる大人達のお蔭だし。

両親との、温かい記憶の思い出があるなら余計に。

例え、今がどんな形であっても。愛されて、育てられた証なのだから。

それに、誰かに拒絶されるのが怖いと思うのは。やっぱり、愛されて育ったからだと思うんだ。

反発するのも、時には疎ましく感じるのも同様に。

それは全て、前提に。

「大事にされた」「大切にされてきた」コトがあってこそなのだ。

覚えていなくとも、記憶の奥底に沈んでいるだけで。

もしかしたら、認めたくないから、忘れたフリをしてるだけなのかもしれない。

でもそういう思いが無ければ、反発心や何もかも、そういった感情が生まれてきたりはしない。

比べるモノが何一つ無いから。何も沸かないし、感じない。

俺にとって両親とは、そういう存在なのだ。

俺の中で、二人がそうであるコトは。周りから見たら、可哀想とか思われるコトかもしれない。

けれど、俺からすれば、それは何てコトの無い、極普通のコトで。

哀しいコトだとも、俺には想えもしない。

だからこそ。

親を切り捨てて生きていける、俺みたいになったらいけないんだ。絶対に。

失ってしまうコトを、哀しいとも思えない、感じない俺は。

もしかしたら、憐れな人間なのかもしれない。

けど今更、根底に深く絡み、浸透した思考が。変わるコトも、無いんだ。





でも、それでも俺は。

過去(むかし)に比べたら、コレでも変わった方だと思う。

何をしても、何が起きても心を擦り抜け。全てを諦めて、薄らぼんやり生きてた。

死にたいと思ったコトは無いけれど、特に生きたいと思ったコトも無くて。

それが、生きてて良かったと。世の中も、思うほど悪いモノじゃないと。

そんな風に思え、感じるようになったのは、三村と付き合うようになってからで。

俺が三村に対して抱いてる感情は、本当はとても重いモノだと思う。

三村が思っているよりも、ずっと。深くて、重いんだ。

だからこんな俺の心の内だとか、両親に対する思いや何だとか。

コレから先、知って欲しいとも思わないし。

特に三村みたいな優しい人間には、知られたくないし、知らなくて良いコトだとさえ思っている。

思ってはいるけれど、もし仮に。

面と向かって訪ねられたのならば、その時は話してしまうかもしれない。

そうなった時、三村がどのような反応をするのか。容易く想像出来るし、解っているのに。

解っている上で尚、口にしてしまうのは、罪なコトかもしれない。

けど俺は、三村に対して嘘は吐けないし。

かと言って、隠し通すコトも難しいのであるならば
―――

そんな日が来るのか、今の俺に解りはしないけれど。

唯、「望んでいるコトなど何も無い。」と。

激情のままに、吐き捨てるよう洩らした言葉。

普段はクールを装い、周りに見せるコトのない一面。

それは凄く人間らしく、誰しもが本来持ち合わせているであろう姿。

だけど時に、酷く滑稽であったり、無様、見苦しい等と受け取られてしまうコトもある様。

望みを捨て切れずにいるコトにさえ、気が付いていない事実をも含めて全部。

両親に捨てられたコトだとか。俺が二人を、どう思ってるのかとか。

ましてや、三村の両親に対する思い。いつか再び、切り捨てられる日が来るのかもしれないとか。

そんなコトは、全てどうでも良くて。

俺の前でだけ見せる、三村の姿が。

とても、愛しいモノに想えた。

俺は、それだけで。

単純に、こんな風に想える事実だけで。

今の俺には、充分過ぎる現実だった。




















fin.




06.06.17




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