愛してるとか、好きだとか。 何とも想っていない相手になら、いくらでも言える。 けれど、そうではない相手に対しては簡単に口にはできない。 言いたいコトは、伝えたいコトは、こんな安っぽい言葉じゃない。軽い想いじゃない。 自分自身の考えを、想っているコトを、誰かに伝えるという行為が如何に大変かというのを、今更ながら実感した。 『砂の城』 さらさらさら。 掌で掬った砂が、零れ落ちて行く。 掬っても、掬っても。 手にした先から、留まるコトなく擦り抜けて行く。 決して掴み取るコトのできないモノ。 アイツの心は、まるでそんな様な気がする。 心だけではなく、彼自身という存在自体も含めて。 *** 誰か、に『執着』するのは始めてだった。 人以外であれば、例えばバスケやパソコン。 これらに、打ち込むコトはできたけれど、『執着』と呼ぶには相応しくはない。 いろんな人と、付き合いもした。 でも、その中の誰かに、心揺さぶられるコトも無かったし、縁が切れたとしても、特に何かを感じたコトも無かった。 人間という生き物は、少なからず何処かで、他人(ひと)を探って見たり、自分自身に利益・不利益かを考えている。 少なからず自分の物差しで、相手を評価・判断し、それぞれの相手に相応しい付き合い方をしているモノだと思う。 『誰に対しても平等に』 こんな言葉を耳にするけれど。 実際そんなコトができている人間など、皆無に等しいのではないだろうか。 それに少なからず、相手よりも自分自身が大事な生き物だ。 だから、平等に接するコトなど不可能だと思っていた。 でも、国信慶時という人間は、いつも笑顔で、決して怒るようなコトもない。 誰にでも平等に優しく、親切で、心穏やかな人間だ。 彼を見ていると、こんな風に出来る人間も居るのだと認識を改めさせられた。 けれど。 国信が誰に対しても平等に振る舞えるのは。 以上の、特別な人間が居ないから。 友人、クラスメイト、見ず知らずの人間も―――。 全部同等の価値なのだ。 例えばそれらは、過ぎ去って行く風景だとか、通りすぎ様視界に映る無機物。 その程度でしかない。 そんな彼の本質を知り、愕然としたのを覚えている。 *** あのような出会い方をしていなければ、特別気になる存在にはならなかった相手。 普通に、クラスメイトとして出会っていたならば。 気になる、というよりも寧ろ、苦手な存在で終っていたのではないだろうか。 あの日、国信に出会っていなければ、俺はずっと裏の顔…。 否、寧ろ真実(ほんとう)の顔に気付くコトもなかった。 なんの面白味も無いような、所謂いい人。 それで終っていただろう。 でも俺は気付いてしまった。あの日出会ってしまった。 以上の、特別と思ってくれるような存在になりたいと思った。 想像以上にそれは、大変なコトだというのを実感するコトになるけれど。 このコトに気付かない方が幸せだったのか。それは解らない。 でも。 砂は水を含んでも、それは一時的なモノに過ぎず、時間が経てば乾いてしまう。 形作り、何かしらを形成するコトはできるけれど。 一度壊れてしまえば、元に戻るコト無く、次第に全てが崩れ去る。 そうして再び、今まで存在していた形跡すら、何一つ残さず、真っ更な状態へと姿を変えてしまう。 俺という存在も、アイツの中で、そうなってしまう日がいつか来るのだろうか? 何一つ変わらずに、以前と同じ微笑を浮かべて。 過ぎ去りし日の、色褪せた風景の一つとして。 *** 愛してるとか、好きだとか。 言いたいコトは、伝えたいコトは、こんな安っぽい言葉じゃない。軽い想いじゃない。 掬っても掬っても掴むコトの出来ない砂のような国信の心。 それでも何度零れ落ちようと、俺は掬い続ける。 ほんの僅かでも、何かしら鮮明に残せるモノになりたいから。 fin. |
04.04.01